■■■下北沢物語■■■

東京店開店にちなみ下北沢界隈の昔を振り返ってみました。
こげ茶色の貫通扉型でない電車が走っていたのは昭和30年頃
左の画像は梅丘から世田谷代田に向う上り普通列車の画像です。
ピントが甘く見ずらいですが前サボの掲示がはっきりとわかります。
この頃は線路沿いの柵もなく電車さえ来なければ誰でも横断が出来ました。スーパーマーケットというものが普及していなかった時代に下北沢の「市場」は生活の中心地で長靴を履いたおじさん達でいっぱい市場内は無論・映画を見るのも食堂に行くのもどこでも長靴でOKな時代でした。入口付近の大踏切には手旗による詰所があって巻上式の横断棒を忙しく上げたり下げたり混雑の極みを呈していましが今ではそのらしさや栄華を伺うべくもなく北口にある市場は再開発を待つ寂しい存在になってしまっています。私が生まれたのはこの線路の脇、赤ん坊の頃から車輪の音を聞いて育ち少年時代はこの一帯が遊び場でした。そんな頃あることに気づく、それは電車が通ったような跡が続いていた事に・・・後年大人になって調べてみればそれは小田急がまだ大東急と言われた時代に今の井の頭線代田橋付近から小田急線世田谷代田駅への乗込線が存在した事がわかる。吉祥寺発「片瀬江ノ島行」の海水浴列車等で使用されたものでした。ご存知のようにこの辺は起伏の激しい所でこの乗込線には鉄橋も存在し、また世田谷代田駅を出てすぐにあった急激に曲がる線路はどのように車両が通過したのか等謎の多いところでもあります。また現在の代々木上原駅新宿寄りにはセメント工場があってトキを従えて時折貨物列車が走っていたのも思い出します。御殿場線用のDCに横サボを付けた2輌編成・貨物列車・当時狭軌最速のロマンスカー・油ぎったこげ茶電車小田急カラーの黄色と青電車達。そしてそんなある日、真っ白なボデーに向丘遊園地使用のカラフル帯電車を見る目を疑ったその瞬間をいまでも良く覚えている。それだけ斬新だった。現在の小田急はこの時から変革が始まったと確信している。高架や地下化で大きく変化して行く下北沢界隈ですが、いつ歩いてみてもどんなに混んでいても何故か気軽に行ける庶民の街の「匂い」は今でも変わらない。

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