北の鉄板ギャラリーヘようこそ

最果てへと続く一本の鉄路
男達は未開の大地に何を求めたのか、更なる夢をおったのか、このサボ達は知っている・・・

過ぎていった華やかさと、忘れさられた寂しさを、記録から記憶にするために
限られた鉄板達をご紹介します


■廃線・標津線
「厚床⇔中標津」「根 室」
表白板ホーロー彫黒文字・裏ツートン彫文字○中


日本で最も美しい線区のひとつだった標津線の中標津・厚床間。特に別海(旧西別)から厚床にかけては、手付かずの大自然と湿原、地平線まで続く築堤、近づく事も許されないロケーション、その雄大さに誰もがこころ打たれたものです。標茶・根室標津間に比べ、単行の折返しが基本だっただけにサボそのものは殆ど出てきません。
裏の根室は時刻表には無い幻の行先で、中標津持ちには驚かされるばかりです。定期の運用では相互乗込みはありませんでしたが、厚床駅では夏場の釧路発中標津行の季節普通列車や増結車輛としての分割作業があったことは以外と知られていません。中標津のDCが根室へ向かうのは、根室発根室標津行の臨時・尾岱沼観光号の逆スジを使った名残りで、あまりのこってりさに鼻血が出てきそうです。


■廃線・松前線
準急・松前(準急・えさし併結列車)  
「函 館 行」「松 前 行」
大判青板ホーロー白枠彫文字愛称名浮文字○函


昭和38年12月1日地元松前の夢を乗せて初の優等列車、準急・松前が生まれ、それまでの所要時間2時間半強から2時間7分に短縮され、函館を結ぶ看板列車として運行されました。
昭和35年に既に運行の始まっていた、「えさし」との併結運行は準急として道内初で最後の列車でした。
単行+単行の2両編成は木古内で分割され、松前にはキハ22/66(唯一のスノープロウ無)後方連結、えさしには22/65・68前方連結が主にあてられました。
道内最南端を駆け抜けた松前は、昭和43年には急行に格上げされ、昭和55年10月1日までその名が残りました。
松前線も準急達も遠い記憶の中です。製作4枚限




『北のデゴマル』■D50187■

この砲金文字のいびつさがわかりますが?
無数のこまかな傷がわかりますか?本当にデゴマルだ!と、どきどきするはずです。
北の大陸が黒いダイヤに燃え、長大なセキが地平線まで連なって、幌内から幾春別から万字から、そして夕張から室蘭へ向かいました。大正13年に函館機関庫に2両配置されたのをはじめとして、その後D51、D52と増備され3兄弟仲良く活躍。
このD50は昭和43年の春まで走りぬいたカマです。D50はD51の重量77.7t に対し78.1t もあり、その粘着重量の高さはD51をも凌ぐ足腰の強さで、貨物輸送はまさにぴったりの活躍の場でした。
外観も化粧煙突に、そしてD列配置ながらも美しいスポーク動輪、テンダーのリベット打ち、古典機特有の重量感と質感に満ちた「力持ち」でした。
廃車後、機関区関係者によって大切に保管され、34年の歳月を経て北のデゴマル初公開です。

《データ》
1927年(昭和2年)3月31日
新製配置/日本車輛 
製造No.175
19986として使用開始
1928年(昭和3年)10月1日
D50187へ改番
1968年(昭和43年)2月20日鷲別廃車
《仕様》
縦 20cm 横 76.5cm 高さ 1cm 重量 約10kg

昭和46年8月9日記録
翌日、保線用手漕ぎトロッコに乗せて
もらって、抜海でC55をゲット。?って事はものすごい距離漕がされた?もうよくお覚えていません。
■廃線・羽幌線
「幌延行(留萌経由)」「深川行(.留萌経由)」

大判青板白枠塗彫○不明

留萌本線・羽幌線全線走破の一番枚数の少ない鉄板です。823Dで深川を11:51発車、途中、古丹別で上り826Dと交換後、191.2Kmを経て16:59幌延到着。
何もせずに1日が終わってしまいました。所要時間実に5時間8分でした。交換列車も殆ど無いのに実によく停まっていた一往復限定列車でした。
ホームの花たちがどこの駅も綺麗でした。         
■廃線・深名線
「朱鞠内行」「深 川行」
大判青板白枠塗彫○深

昭和20年ここ朱鞠内にC11・7輌を擁する機関区が存在しました。当時の木材搬出を目的とした貨物優先スジの受持ちと終戦間際の空襲による危険回避のため、集結したのが理由です。以後支区として姿を変えましたが、最終的には一駐泊所として9600最終まで頑張りました。SL末期には車掌車を含めての3輌編成で、廃線のようなレールを走っている姿がありました。 
■廃線・興浜南線「興部⇔雄武」裏逆
青板白枠ホーロー吊彫○旭

稚内から根室までのオホーツク縦貫鉄道構想の最大の鬼門だった、北見枝幸・雄武間。地形上の問題はなく、単純に認可予算が立たず、夢もう少しのところで断念。歴史上、南北線と名付けられた線区は悲恋に終わることが多く、単線区としては使命をまっとう出来ず、そして消える。念願の最後の夢が消えた時、人はどうしてもそれを忘れることは出来ない。最北の終点にひかれるその心が鉄ちゃん魂を今も支えている。 
■臨時海水浴列車
函館本線「札幌⇔張碓」裏逆
青板白枠ホーロー吊彫文字○札

電化前、張碓は札幌から一番近い海水浴場として、とても賑わい、D51に引かれた車内は浮き輪を持った子供達でいっぱいでした。そんな時代もあったのです。海のきれいさは、変わりませんが、付近はめっきり寂しくなりました。もともと人家が少ないため、殆ど昔から通過駅でしたが、こんな立派なサボが存在しました。降客後は築港に回送されました。
■小樽発歌志内行
廃線・歌志内線「歌志内行」・函館本線「小樽行」
青板ホーロー差彫文字○札

小樽発15:50⇒直通⇒歌志内19;09着(635D)
唯一の直行列車で下りのみの運行でした。今では斜陽の両地ですが。1時代を築いた象徴的なサボです。
■苫小牧発富内行
廃線・富内線「富内行」・日高本線「苫小牧行」
青板ホーロー差彫文字○苫

苫小牧発09:02⇒11;47鵡川11:57⇒富内10:44着(4935D)
唯一の富内折返しスジで鵡川切離しでした。木材鉄道”富内線”は美しい風景と構内退避線を多く抱えた、名も無き駅達が特色でした。銀河鉄道構想の穂別駅の次は”富内駅”です。SLを含め数両が保存されています。      
■快速・海峡
「函 館 行」「青 森 行」
白板青帯ホーロー差彫文字○函

ながーい青森と函館の袴線橋、いつもリュックにカメラケース、そして走る。思い出すたびに最初に思い浮かぶのがこの光景です。暗ーい海・光る海・いか釣船の灯りの海・約4時間のデッキは、若者達にとって期待膨らむ最高の瞬間でした。あの大海原の下に今は高速で駈け抜ける列車達がいます。旅のくぎりの青函連絡船でした。           
■臨時列車「ポロトスケート号」
3色板ホーロー吊彫○室/裏白板赤文字

昭和48年の正月からの1月いっぱいにC57列車が飛び交う中、DCで運行されました。
当時、室蘭は活気に溢れ、北海道を代表する重工業都市で、単独での生活・遊戯圏を形成していました。白老はアイヌ部落でも有名ですが、付近には静かな「ポロト湖」が在り、スケートで賑わいました。その折のもので、在りし日の室蘭です。室蘭9時5分発白老10時1分着(行きのみ運行)。なぜか当時私はそこで、裸馬に乗っていました。おまえはだれダ・・・。
■臨時列車
「ポロトスケート号」

ホーロー吊塗○室/裏白板赤文字白上塗

こちらは正調ポロト号です。
室蘭発岩見沢行きC57旅客に増結され
、白老まで行っていた際のものです。フックも筆文字時代の物と同様で、時代が伺えます。旧客にとっても、映えていました。

昭和46年8月12日記録
この頃駅を出て遠く尾岱沼に行くまで信号機は2つしかありませんでした。3つ目の信号機が付いた時、小さな町ながら盛大にパレードをして、私も一緒に旗を振っていました。
■「根室標津」
「釧路・下段・釧路-標茶・急行」

白板青帯ホーロー彫差○釧
 急行「しれとこ」仕様

根室標津は私の第2のふるさとです。その昔、キャラメルコーンのCMに憧れ、遠くこの地に住みつき牧場生活をしました。厳しさばかりで、夢破れ、でも多くの友人達と過ごした2年間は、一生の思い出になりました。短い夏が過ぎて、内地に帰って行く仲間達をこの駅で見送りました。「俺本当は、本当は・・・」と言っているうちに22は小さくなっていきました。堪り場だった駅脇の喫茶店も駅舎もなにもかも無くなってしまいました。あの賑やかだった頃が懐かしいナー。
■D52大沼公園号
「大沼公園行」「函 館 行」
青板白枠ホーロー吊浮○函

昭和40年代後半、日本中ディスカバージャパン=SLの大ブームの中、小椋ケイの歌声に乗って、民放番組でたびたび紹介されました。馬鹿デカイボイラーのこのカマに4輌の客車は短過ぎました。思いっきり持て余しのファンサービスでした。
「小樽行」「釧路行」青板白枠ホーロー吊彫○小

栄華を極めた古道の都「小樽」と道東の「釧路」を結んでいた,夜行列車「カラマツ」の吊りサボです。鉄路のはじまりは「小樽」からの名残を感じさせてくれたスジで多くの人達に愛された列車でした。早朝、稚内へ向かう「北の321レ」と同様郷愁を味わうことの出来た、「東のからまつ号」。最も大陸的なこの列車は鉄道ショップの店名として今も活躍しています。
■日高町発鵡川行・最終列車
廃線・富内線「日高町」「鵡川行」
白板青帯ホーロー差彫文字○鵡

日高発17:26⇒鵡川19:35着(4944D)
全線のみの運行で、唯一苫小牧まで足を伸ばさなかった列車で上りの最終でした。大自然の中の交通の要衝”日高町”賑わうその交差点も、高速道路の開通により、また静かな町に戻ろうとしています。
■懐かしの釧路鉄道管理局
「厚岸行」「釧路行」「池田行」「帯広行」
大板青帯白枠ホーロー差彫文字○釧

この他、「根室行」「厚床行」「白糠行」「新得行」「陸別行」「置戸行」「標茶行」「弟子屈行」「斜里行」「網走行」「計根別行」「中標津行」「根室標津行」「西別行」など存在しました。
昭和40年代釧路は鉄道王国でした。全ての行先がもし揃ったとしたら、どんなに凄いことでしょう。
大判の魅力はその存在感です。吊りとも違った味わいが好きで、一番よく喋るのがこの大判達です。夜中にコソット話しかけると、「俺はなー、その昔・・・」と喋りかけてくれます。

■「根室標津・標茶-根室標津・普通」
青板ホーロー彫差○釧
根室標津は帆かけ船漁で有名な「尾岱沼」の玄関口で、昭和50年頃は、幻想的なトドワラを見に多くの観光客で賑わいました。夜はアイヌの民芸屋台も出て、お祭りの夜店のようでした。この駅も遠く「根北線」の越川より延長予定でしたが、中断どころが、線自体も廃止されてしまいました。知床連峰の原生林を超え、あの白いアーチ橋が架かっていたら、どんなに素敵だったでしょう。釧路へ・根室へ・そして網走へ、それが地元の夢でした。全てが終わってしまった駅跡に立った時、そんな時代に立ちあえられただけでも、夢をありがとうって正直思ったものです。

■「標 茶 行」
青板ホーロー彫差○釧

昭和46年そこはC11達の楽園でした。本線のC58達を横目に、標津線のためだけに、実に7輌のカマを抱えた標茶機関支区でした。当時、駅舎反対側はただの草原で何も無く、模型のような2つの小さな庫が転車台から伸びていて、その姿は、間違い無く日本一のウエスタンスタイルで、最も北海道らしい光景でした。
よれよれの線路を日に数本しか運行がなかったのに、7輌とは・・・。こんな無駄がとっても良い時代でした。現在も旧標津線ホームは健在ですが、駅前の唯一の娯楽施設「パチンコ屋」も空地となってしまい、人影もまばらです。

昭和48年
8月6日記録





左・北見枝幸 中央・浜頓別 右・音威子府
■天北線「音威子府行浜頓別経由
青板白枠塗○無

礼文・利尻島をやっつけた連中は、朝の船で出発。昼から市内でひと遊び、そして目指すは浜頓ユース。道内1周予定者にとっては、お決まりのコース。さんざんお花畑で頭をおかしくされ、そして今度は美しい牧場の浜頓別、もう夢ごこちでした。牧場での本当の草野球、そして海の幸いっぱいのバーベキューうーあーモー。
興浜北線の9600はいつも不定期。効率の悪さは定評でしたが、どうしても灯台の下を走る9600が撮りたくて敢行。時間があったので、枝幸に先に行ったのがそもそもの間違い。斜内下車後駅員に何しに来たの?と聞かれSLを・・・。残念だネ・・・。あーあ。時刻表板を振りかえって見ると、なんと4時間も次まで無い。駅の前は玉ジャリとオホーツクだけ、どこにもいかず浜から灯台を眺めながら・・・かくしてファンタの大缶とともに時間は経過したのでした。なんだか意味がなかったのに、大切な思いでになりました。旅って、鉄チャンってそんなものですよネ。日本離れした光景と、無駄な時間がいっぱいのそんな天北線・興浜北線でした。


(621D)浦    臼06:05発⇒石狩沼田07:34着
(638D)石狩沼田20:13発⇒浦   臼21:33着
■廃線・札沼線
「石狩沼田」「浦  臼」

大判青板白枠
ホーロー彫文字○旭

早朝の一番列車と最終列車の一往復のみの運行でした。1日中、石狩沼田で油を売っている間に、深川発札幌行・札沼線経由というお化け列車が4時間強かけて、2往復していました。昭和40年頃だから出来たことでした。北海道の大自然というよりか、北海道の田舎という景色は今もかわりません。

■倶知安発御園折返し・一番列車
廃線・胆振線
「御 園 行」「倶知安行」
大判青板白枠ホーロー彫文字○倶

(824D)倶知安06:04発-御  園07:06着
(823D)御  園07:34発-倶知安08:38着

早朝の一往復のみの運行でした。その昔から目立った利用駅もありませんでしたが、新大滝・御園・喜茂別・久保内・京極と区間発着列車がありました。のんびりと羊蹄山をバックに給水する9600の姿がありましたっけ。今はその跡地の確認すらむずかしくなってしまいました。

■「長万部行」青板吊ホーロー彫筆○室
北海道の中でも筆文字が似合う行先のひとつです。
山線・海線の分岐点、万部には当時構内西側に中堅機関区があり、扇形車庫付近にはD51・D52・C11そしてC62も立寄る賑やかな庫でした。今も昔も室蘭への普通スジは薄く、牽引のD51も殆ど勾配もなく、手持ちぶさたの軽快な走りでした。忘れた頃に発車していくチュコレート色の列車には、こんな立派なサボが1枚ずつ全ての車輛に付いていました。頑丈なはずのリベットもフック共々無くなってしまっています。それでも違和感を感じないのは、説得しきれる存在感なんでしょうネ。



昭和46年8月6日記録
毛かにですヨ

■「室 蘭 行」青板吊ホーロー彫筆文字○室
道内最大の重工業都市だった室蘭。その駅構内は始発駅というよりか、軍事基地のような、複雑でなにかガッチリと動いてるそんなイメージでした。数え切れない側線ごと右へ大きく曲がった構内に無数の貨車そして、ふるーい駅舎から出発してくるC57・D51そしてコークスをひいてこちょこちょと動き回っていたチビロコ達、誰の煙だかわからない程の黒い空。過密なスジを通り抜けて、長万部へ岩見沢へかよいました。広ーい空地にポツンと停まる40.そこは、紛れも無く今の新しい室蘭の駅でした。
駅舎だけはなんとか残りました。ぜひ訪ねてみて下さい。



昭和46年8月6日記録
地球岬

■臨時すずらん1号・釧路延長運転
昭和47年頃から50年代初頭の北海道ブーム多客期に対応するため、7月下旬から9月上旬にかけ運行され、下りの函館では、特急おおぞら2号の5分後の9:40に出発しながら、釧路では遅れること1時間35分後の21:12到着。延長運転専用で尚且つ千歳線経由入りは大変珍しいサボです。

■「函館⇔木古内」裏逆
大判白枠青板ホーロー彫差○函
北海道特有の跳上状の無数の欠、とっても好きです。サボに味わいと言う言葉があるなら、この鉄板のためにあるようなものです。
留萌行/築別行
昭和43年
廃線 羽幌線

築別11:54発 留萌行 832D
留萌16:03発 築別行 837D

当時の羽幌線築別駅は羽幌炭鉱鉄道の分岐駅でもあり、炭鉱の駅としてとても栄えていました。当時は築別行きの気動車の後ろに羽幌から、羽幌炭鉱鉄道の気動車を併結して走っていたものです。その羽幌炭鉱鉄道も炭鉱の閉山により廃止されました。

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